自己利益の定義は難しい

私の担当が今年最後なので、思いついたことをつらつらと書こうと思います。
「お金」というものを「効用」と最初に位置づけたのが誰なのかは、私のような不勉強な者にはわかりません。
何となくホッブス以後の自己利益の追求に貨幣的測定を加味したのは、アダム・スミスじゃないかと思っているのですが、ヒュームやモンテスキューだったのかもしれません。
有名なクラ交換を例に上げるまでもなく、本来は自己利益の定義は難しいところがあります。
クラ交換では、贈与と返礼を続けているうちに、「このやろー、これでもかー」の贈与競争になっていき、最後は破産してしまう原住民も出ると言います。
彼らが贈与と返礼を繰り返し破産すること。それが自己利益というわけです。
こうなると、自己利益の数値的な測定はマイナスになる方が偉いわけで、私たちの常識なんてカンタンに吹っ飛んでしまいます。
ただ、そうとも言えません。
世の中には、案外、借金が多いことや出費の多いことを威張る人がいます。
私も、昔、父親から「借金がたくさんできるような男になれ!」と教えられました。
借金を単純にマイナスとは言えませんが、借金の多さを競っていたらどこかで破綻します。そういう点でクラ交換と似ていますね。
また、税金を多く払うことを誇りにしている人がいると思えば、税金を払いたくないと、やっきになっている人もいます。
税金を積極的に払う人には業績のいい人が多い。これは事実です。
しかし、誰もムダな税金は払いたくないでしょう(私も絶対に嫌です)。
この払う税金の金額を測定数値と見た場合、自己利益の問題はもっと面倒になります。
税金を払わない一番良い手は利益を出さないことです。
それが自己利益ならば、積極的にそうするべきでしょう。
日本では、サラリーマンの税金負担率は限りなく少ないですからサラリーマンというのも税金を払わないことを自己利益にした場合の選択肢としては上位に来るでしょう。
そして、税金を多く払うことを自己利益にしている人は、ガンガン稼ぐことが自己利益の手段になります。
どう客観的に見ても、こっちの方が矛盾しない行動を取れるように思えますが、なにせ自己利益の定義は面倒なのですから、これが絶対とも言えません。
世の中の社長の中には、稼ぐことよりも、格好をつけたいことを自己利益としている人も目立ちます。
当然、格好をつけたいことが最優先ですから、稼ぐことを平気で犠牲にします。税金をなるべく払わないという自己利益同様に、こうした自己利益も稼ぎとは矛盾するわけです。
今から見ると、アダム・スミスの論のどこが画期的であるのかはわかりずらいですが、こうして考えてみると、アダム・スミス(または、ヒュームなど)はかなり画期的なこと言ったのかもしれません。なにせ、人々の自己利益を数値に集約してすべてを説明してしまったのですから・・。
ショーペンハウエルは、これに対して逆を言います。
「あらゆる精神活動のうちで最低のものは、算術的な精神活動である。その証拠は、それだけが機械によってもなしとげられる唯一のものである、ということである」(『知性について』より)
この言葉が、19世紀の中頃に言われたというのは凄いと思います。
単なる数字集計をしている税理士さんには、重い言葉でしょう。
でも、この言葉は数字の集計などを行っている人たちに対する皮肉なんかではありません。
商業活動をしている私たちすべてに対する言葉です。
実際、「算術的な精神活動」はインターネットの登場で自動化がかなり現実になってきました。
さてさて、こうしてショーペンハウエルの言っていることは現実になってくると、私たちは考え込んでしまいます。
自己利益とは何でしょうか?
これに対する答えも、実は多くの哲学者が既に言っていますが、その答えを答えと考えると再び話は元に戻ってしまい、結局なんなのやら・・。
ただ、言えることは、私たちはそれでも稼がなくてはいけません。
どうしてか?
それがまたわからないんですよねー。